2024/08/18

ムスティカラサ/Mustikarasa

ムスティカラサ

ムスティカラサ/Mustikarasaという本があります。
時の大統領の指示により1967年に出された、インドネシアの端から端まで、各地の料理を集めた壮大なレシピ集。
その後、2016年に再版され(わたしもその時に買いました↑)、今年に入ってまた注目されています。
インドネシアの食文化を見直すことを目的とした、Mustika Rasa Kini(現代のムスティカラサ)という活動や、この本のレシピに基づいた料理を出すレストランなども。

わたしはずっと、単純に、料理を通じての国家統一や、ナショナリズムを高めるためのものだと思っていたのですが、もっと切実に、食糧問題に対応するための政策という意図を持って編纂されたものだったのだと知りました。
というはなしを、今回は。
どこかに旅したとか何を食べたとか、そういうのじゃなくて堅苦しい内容なので、ちょっとうちの猫を添えて。

ムスティカラサ

トータルで1200ページ以上の厚さで、収められたレシピの数は1700ほど。
各地の郷土料理のほか、中国や西洋の料理も含み、レシピ以外にも素材の知識や栄養学的面からの解説もあります。

インドネシアの初代大統領スカルノが指示を出し、その妻のハルティニの監修のもと、1961年から始動したプロジェクト。
メールもファックスもなかった時代、彼らは全国の役所や婦人会などの組織に手紙を送りレシピを募りました。
寄せられたレシピは女性達が実際に試し、その作業や味の確認作業を行い、レシピのみではなく、栄養知識を共有し、献立の組み方も提案するものとして、プロジェクトは進みます。

ムスティカラサ

ムスティカラサ

一大プロジェクトの背景にあったのは、当時の食糧難でした。
インドネシア独立(1945)前と比べて、1965年には米の収穫量は倍に増えていたと言いますが、にもかかわらず、人口も倍に増え、一人当たりの米の消費量も増え、国が政策として農業支援を進めても、いつまでたっても国民の腹は満たされなかったのだと言います。

長きにわたるオランダによる植民地支配、第二次大戦中の日本軍支配を経て1945年に独立を成し遂げた初代大統領は、食糧(=米)自給も国家独立の一つの重要な要素と捉え、国を挙げて取り組んでは来たものの、米の価格の上昇は止まらず、国民の不満も募るなか、軍によるクーデター930事件が1965年に起こり、その後1967年には正式に退陣を余儀なくされます。
そんな、スカルノの政権末期のプロジェクトであったムスティカラサは、彼の失脚と前後する1967年に(やや急足で)出版されることになったのです。

ムスティカラサ

この本の本旨とは、全国各地の地場の素材を用いた食文化を復興/訴求することで、
元来米食ではなかった地域では、米以外のローカルな食材の見直しを進め、米不足を解消しようとするもの。
なので、レシピには、東ヌサトゥンガラ地方で食べられていたトウモロコシ粥、ジャグン・ボセ/Jagung Boseや、インドネシア東部を中心に食べられていたサゴ澱粉の粥、パペダ/Papedaなども掲載されています。

ムスティカラサ

材料別のインデックスで主食の欄を見ると、米を材料とするものが圧倒的に多いのは事実なのですが、その次にトウモロコシを持ってきています(その後、小麦粉、そして芋類)。

ムスティカラサ

主食に限らず、その土地の人々が本来ずっと活用してきていた、そこで採れる食材を使い、美味しくて体によい食事を作れるように、という、地場の食材を見直すことも期待していました。
食生活の原点回帰を促すとも言える、食糧政策としての国を挙げてのレシピ本の編纂。

そこに至る、インドネシアの、というかインドネシアという国ができるより以前からの、人と食の推移を、ここしばらく本で読んで勉強していました。

Ahmad Arifの3冊

インドネシアになる以前のこの島々のことを、なんと呼ぶのがいいか。それははもう「ヌサンタラ」なんですけど、なんか、新首都が「ヌサンタラ」になっちゃったもんで、使いにくいですね。でも、とりあえず、ヌサンタラで行きます。

この先は、自分の備忘録的メモでもあるので、だらだらと続きます。あと、まだ理解の途中なので、後から「あ違うわ」となることもあるかもしれません(だいたい、なんでも「あーなんかわかった」と思ったことは、あとから「わかってなかった」と気づくものですし)。ご了承ください。


まず、ヌサンタラへの人類の移動の段階。
①第一次アウト・オブ・アフリカ:ヌサンタラ着は50,000年前ほど
②第二次アウト・オブ・アフリカ:11,000年前
③第一次アウト・オブ・台湾(オーストロネシア系):4〜5,000年前
④第二次アウト・オブ・台湾:2,000年前
⑤インド・アラブ系移民(ヌサンタラ西部):2,000〜2,500年前

で、これらの人々の定住と食生活の変移は、
①と②の人々は狩猟採集生活を営み、ヌサンタラ各地に広がって行った。当時は、氷河期であったため海水位が低く、ヌサンタラ西側は半島と一体であったりして、移動もしやすかった。
のちに人口の増加などの要因を受けて、農耕へ移行して行く。地球の気温上昇により、草原が森になるなどして、猟がし難くなったからという仮説もあり、面白い。

狩猟採集の生活を送る人々は、現在のインドネシアにもまだいる。パプアのセンタニ湖周辺の人々は、サゴ椰子の澱粉を収集し、湖の魚を捕り、日々の食糧としている。

農へ移行した最初の形跡はパプアで、インドネシア領パプアのバリエム渓谷(人類が定住したのは27,000年前と言われる)では、タロイモ栽培+灌漑整備の形跡は7,000年ほど前まで遡れる。現在は隣国となるが、パプアニューギニア領の地域では、10,000年前にタロイモ栽培の形成が見られ、バナナは6950年前から栽培されているとされる。

③の初期オーストロネシア系移民がイネを持ち込んだ。
彼らは農耕民で、ここでのイネは陸稲。彼らが、カリマンタン等の狩猟採集民と交わった形跡もあるそう。初期農業は焼畑農業。一定の森林を焼き、農地として開墾し、数年ごとに移動していくというシステム。
現在も、カリマンタン内陸のダヤック人は陸稲を用いた焼畑農業をおこなっている。

④と⑤は水稲を持ち込んだ。
おそらく④が先行したようだが、ヌサンタラの特に西部に強くインパクトを持ったのは、⑤のインド水稲。
まずはジャワに伝搬し、一気に拡大定着、スマトラやカリマンタン南部、バリへと伝搬していく(スマトラ北部のアチェや、西部のパダンあたりには、インドからの直接的影響も見られる)。
その後、ヌサンタラ各地で繁栄した王朝を中心に水稲栽培は浸透していった。現ジョグジャカルタ付近を中心とした古マタラム(732〜1045)王朝の遺跡や、シャイレンドラ(760〜850)王朝が建立したボロブドゥール寺院のレリーフなどに、水稲栽培の様子が見られる。
その後、18世紀には、ジャワの低地などは米食が主流となっていた。

Ahmad Arifの3冊

それ以外の地域の主食は、というと、東インドネシアで現在も食べられているサゴ椰子の澱粉。これは、かつてはヌサンタラ各地で食べられていた。
カリマンタンのプナンが食するサゴや、西ジャワの内陸の民が食するサゴは、パプアなどのサゴと木は違うが、椰子科の植物の幹から採取した澱粉であることは同じ。

また、バナナの他、芋類は、最も古いタロイモの他、16世紀にポルトガル、もしくはスペインによって持ち込まれたサツマイモ、そして1892年にオランダが持ち込んだキャッサバなどが主食として広く食されていた。

トウモロコシは東ヌサトゥンガラ州などで今もよく食されているが、サツマイモ同様に16世紀にポルトガル/スペインによって持ち込まれ、定着した。

キビの仲間であるソルガムもよく食べられていた。ヌサンタラに伝搬したのは米よりだいぶ以前である可能性が高く、乾燥地でも手をかけずともよく育つので、各地で栽培された。ただ、主要作物として表に出ることは稀であったため、米の浸透と共に忘れ去れられた感がある(近年、食糧危機に対応する植物として意識され始めてはいる)。

で、それらを踏まえ、このヌサンタラにおける、その後スカルノも頭を悩ます事になる、続く政権でさらに悪化し、いま現在も解決されていない、米化の流れです。

うちの猫で一息いれとく?

ねこ

そもそも、ヌサンタラの人々は、それぞれの土地でそれぞれの植生に合わせた食生活を送っていた。
オランダによる植民地化。強制栽培を目的とした農地のとり上げ、地主小作システムの確立。
主に、ジャワとスマトラを中心として行われた。彼らは、稲作を行う農地を失うと共に、手のかかる稲作に割く労力がなく、この期間は米の消費は減少する。代わりに、乾燥地などで手をかけずとも育ちやすいサツマイモ、キャッサバ、トウモロコシなどが代替主食となる。
インドネシア独立(1945年)
国家の独立=食糧(=米)自給を目指し、米の生産量を倍増させたが、人口も倍増。また、一人当たりの消費量も増え、米の充足は達成されない。
植民地時代に米を取り上げられた地域の人々が独立後の国策に中心となったため、食糧=米、とにかく米、米、米を、という米バイアスが拭えなくなったのではないか、というのは個人の感想(でもそうだと思う)。
従来食の見直し。乾燥地帯の活用も視野に入れ、トウモロコシなどの栽培も推奨。食の意識改革を目指して、ムスティカラサの編纂を指示(1961)。
米の値段上昇を抑えられず、初代大統領スカルノ失脚(1967)。かろうじて出版されたムスティカラサだが、国策に反映されることはなく、時期大統領として、スハルト就任。
農村出身のスハルトは「緑の改革」を掲げ、食糧=米の自給を目指す。多様であった在来種を一掃し、品種改良された指定品種+化学肥料+農薬を使った水稲栽培を推奨。他の作物の栽培農地も水田にするよう指示。
そもそも、焼畑による陸稲栽培は在来種の多様性を維持するに向いていたが、水田による水稲栽培はモノカルチャーの走りとも言えるシステムであり、それがさらに指定品種に制限されてしまったことで、米の多様性が失われた。以前は8,000前後あったとされる在来品種も、その多くが失われてしまったと言う。
また、指定品種の種、化学肥料、農薬、などの購入が必要となるため、稲作はお金のかかるものとなる。それが、地主小作の格差拡大を助長したとも考えられる。
経済的自立を求めて外資の参入に非積極的だったスカルノから、外資と協力関係を結ぶスハルトへ移行した結果、大規模な環境破壊が進む。
一例として、カリマンタン。森林の木材を伐採し、日本の商社へ売却。伐採された森は、放置されるか、パーム椰子など商品作物のプランテーションとして使われる。
移動型の狩猟採集民として暮らしていた土地の人々にとっては、生活の場であった森が失われることになる。食の自給が絶たれ、貧困者枠へ入れられ、従来は米食ではなかった彼らに、支援として米を送られるようになる。
定住化を余儀なくされた人々は、商品作物の栽培を行い、それを売ったお金で米を買うようになる。
各地で同様のことが起こる。
政府=ジャワなので、食糧=米なのは変わらず、支援は常に米。
受給側にとっては「国から与えられるもの」「お金を出して買うもの」である米は、従来の食を支えた「採れるもの」より上位のものというイメージがついていく。
結果、特に若い世代から、従来食よりも米食を求める傾向が強くなり、米依存となっていく。
1954年には米を主食とする人は、全国民の53.5%であったが、1981年には81%にまで上昇している。
しかし、従来米食でなかった地域というのは、米栽培に不向きな土地である場合が多い。このため、従来食を捨て米食へ移行するというのは、必然的に地域での食糧自給が低下することになり、購入するか、国から支給される米に依存することになる。
スハルト失脚後も米化の流れは止まらず。
外部からの米、政府支援の米に依存する貧困地域に明確な策はなく、米による食の植民地化とも言われる。
一例として、東スンバの内陸の村。1970年代までは、米(水稲+陸稲)、トウモロコシ、ソルガム、豆などを栽培し、食を賄えていたが、2016年時点で消費は米中心となり、地域の米総消費量125.5トンのうち、収穫で賄えるのはわずが32.5%のみであり、あとは外部に依存するしかないと言う。
地域支援としてのインフラ整備が進むことで、農業従事における労働力が流出する。加えて、消費作物に代わって換金作物を栽培するようになり、収穫物は自分達が食べるのではなく、町へ出て売るものになる。売ったお金で米を買う。
近年、米食は低下傾向。代わりに小麦の消費量が上昇。ただし、小麦は100%輸入のため、自給率はさらに低下することになる。
小麦=インスタント麺
2024年は400万トンの米を輸入すると予測され、これは過去最大の数値。

で、この状況をどうにか見直そうという流れが、冒頭の「現代のムスティカラサ」のムーブメントなのです。

ムスティカラサ

たぶん、こういう流れ、わかっている人はきっとちゃんとわかっていたんだと思うんですがわたしあんまり気づいていなかったんですよね。
パプアで、あんなに美味しいパペダを前にして、子供たちは米を食べたがると聞いて、あんなに豊かにあるサゴ椰子の澱粉より、みんな今は米志向だと聞いて、ようやく「え」となりました。
パペダよりご飯が上なのだろうか?と。

確かに、米は美味しいんです。わたしも日本人なのでそれは認めます。その米のおいしさが中毒性を持つのも確かです。そして、美味しいは、割と全てに優先されるのも事実だと思うので、もうどうしようもないのかな、とも思うのですが。

でも、例えばGI値を比べると、ご飯は80ですが、サゴは40です。
ご飯の方が、サゴより燃焼されやすいので、すぐにお腹がすいてしまうんですね。
加えて、これはメンタワイ島でのデータですが、1時間彼らが働いて得られる収穫としては、サゴは2.6キロなのに対して、米は0.6キロなんです。効率が非常に悪い。
作業効率が悪く、燃費も悪く、かつ自給できないので外部に頼らざるを得ない、そんな米なのに。
というジレンマを感じてしまったのでした。

ムスティカラサ

なので、この一式を調べて、結構満足しました。
それを知って、じゃあ今から何かできるのかといえば、できることはほとんどないでしょうが、それでも、知っているから気付けることっていうのはあるわけですしね。
長々お付き合いありがとうございました。

次はコメの地へ、という計画に変更はありません。


2024/07/31

パプアの食卓⑥:低地のパプアのサゴ食

サゴ椰子 Berap_Papua, 2024

山のパプアを後にして、低地のパプアに戻ります。
低地のパプアの食と切り離せないのは、椰子の一種のサゴ/Saguの幹から採取される澱粉。
サゴについては以前、バンガイ諸島の食卓でも書いているので、そちらもご参考いただきながら。

サゴ椰子は低地の湿地に生える植物であるため、その澱粉の使用はパプアの中でも低地の民のもの。
山のパプアの食卓には、サゴ椰子は基本的に登場しません。
一方、低地のパプアでは、サゴ澱粉はずっと、暮らしを支える主食として食べられてきたものでした。

パペダ Jayapura_Papua, 2024

というか、今でこそサゴ澱粉を主食とする文化はパプアから北マルク、一部スラウェシで見られる程度ですが、
もともとは、インドネシア全土、というか、インドネシアという国ができるより遥はるかはーるーかー以前から、
東南アジア島嶼部で広く食されていたものだと言われています。
確認されている一番古いものでは、5万年前。
マレーシアのサラワクにあるニアの洞窟で、先史時代のサゴ消費の形跡が確認されたそうです。

この地域に、稲作文化がオーストロネシア系の人々によって稲作が持ち込まれたのは4000〜4500年前とされていますので、
お米が入ってくるより前に、ずっと人々と共にあったものが、サゴ椰子だったのでしょうね。
その名残は、「ごはん」を表す単語がジャワ語でSega/Segoであったり、スンダ語ではSanguであったり、というところからも伺えます。

パペダ Jayapura_Papua, 2024

また、現在各地にある「もちっ」とした食感のものや「どろっ」とした食感のものは、
タピオカ澱粉で代用されたものがすっかり定着していますが、元はやはりサゴ椰子澱粉を使ったものだったのだそう。
パレンバン/Palembangのペンぺ/Pempekなどもそうですし、
西カリマンタンのシンカワン/Singkawangには、ブブル・グンティン/Bubur Guntingという、
タピオカ澱粉のとろみをつかった、温かくて甘い緑豆の入った葛湯のようなものがあるのですが、
思えばあれは、甘くてゆるいパペダ(澱粉を熱湯で練ったのり状のもの)であったと言える!と気付いたりします。

ブブル・グンティン Singkawang_West Kalimantan, 2018

東部インドネシア以外で、現在もサゴ澱粉を主食に用いている地域はわずかで、
スマトラ西部のあるメンタワイ/Mentawai諸島の先住民族であったり、カリマンタン内陸の先住民プアン/Puanなどに見られる程度。
それらの地域でも、現在は米食が主流化していますし、インドネシア東部でもサゴ澱粉は米に押されがちです。
現在のサゴ澱粉食地域は、古代から続いた食材の最後の砦のようにも思えます。

まあ、米食サゴ食を考えていくと色々問題が見えてきて「むー」となるのですが、それはまたいずれの折に。

ジャヤプラから3時間ほど行った村で、サゴ澱粉を採るところを見せてもらい、料理をしてもらいました。

サゴ椰子 Berap_Papua, 2024

青くきれいな水が流れる村。
流れの中に生えているのが、サゴ椰子。大きく育って、花軸が出てきた頃が採りどきだそう。

サゴの幹を削る Berap_Papua, 2024

サゴの幹を削る Berap_Papua, 2024

倒した幹を頃合いの大きさに切り、その内側の部分を粉砕していきます。
以前はこれも手作業だったそうですが、今はこういう歯のついた機材で一気にやってしまうのが主流。

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

幹を粉砕している間に、水辺では澱粉採取の準備を開始。
サゴの葉軸の根本部分を活用した道具なのがいいですね。

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

葉軸の一番太い部分に、濾すための目の粗い布を当てておき、
粉砕した幹の繊維に川の水を注いで揉み込み、澱粉を含んだ水だけが下に流れるという仕掛け。
流れた先はより目の細かい布で、水気だけを流して澱粉質を残します。

この揉み込む作業、やらせてもらいましたがなかなか力のいる重労働です。

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉採取 Berap_Papua, 2024

この地域のサゴ澱粉、赤いんです。
これまで見てきたのは、灰色っぽい白がほとんどだったのですが、
この村のママ曰く、新鮮なうちは赤く、2-3日して鮮度が落ちてくると白っぽくなるのだそう。
とはいえ、別のところでは、採取したその瞬間から白かったりもします。
サゴ澱粉に詳しい友人に聞いたところ、
赤いサゴ、白いサゴ、という区別があるというのは以前から耳にしているが、明確な差異は見つけられていない、
ポリフェノールを含んでいるので、その反応で赤くなっているのではないか、とのことでした。
別の村で聞いた時には、木の部位が違うんだという意見もありましたが、
まあおそらく、サゴの種類の違いなのではないかなと思います。

サゴ澱粉 Berap_Papua, 2024

ということで、水気の切れたサゴの澱粉です。
これを買って、調理してもらいます。

キッチン Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉 Berap_Papua, 2024

ホームステイさせていただいたおうちのキッチン、広々で気持ちがいい。

サゴ澱粉の一部を、まずは篩で細かにして、陽に当てて乾かします。

サゴ澱粉 Berap_Papua, 2024

サゴ澱粉 Berap_Papua, 2024

この作業はわたしでもできるので、わたしが担当。
その間、ママはおかず作り。

クア・クニンを作る Berap_Papua, 2024

クア・クニンを作る Berap_Papua, 2024

クア・クニンを作る Berap_Papua, 2024

クア・クニン/Kuah Kuningと呼ばれる、パペダに合わせるのに一番ポピュラーな魚のスープ。
ターメリックで黄色く色づくので、クニン(=黄色)なクア(=スープ)なんです。

本当は、村の小さな朝市で獲れたての立派な淡水魚を見て、それでクア・クニンを作ろうと思ってたんです。
でも、金額を聞いて「んー」とか考えるふりをしている隙に、他の人にパッと買われてしまって(1匹しかなかった)。
なので、これは、その後に行商のおじさんが売りにきた海の魚(鰹)(海からもそれほど遠くないんです)。
いやー、あのお客さん、早かったー、笑。

スープと一緒に、シダの葉とバナナの花の炒め物も。

シダの葉 Berap_Papua, 2024

バナナの花 Berap_Papua, 2024

魚にしろ、シダやバナナの花にしろ、サゴにしろ、身近でに手に入る食材で日々の食卓が賄われているのが、
なんとも素晴らしいことだと思います。

ブンブ Berap_Papua, 2024

ママ Berap_Papua, 2024

使われるブンブはシンプル。
炒め物には、ニンニクとシャロット、スパイスはコリアンダーシードとクミンシードとホワイトペッパー。
クア・クニンは、ニンニクとシャロットとターメリックとガランガル、ハーブでレモングラスとサラムリーフ。
唐辛子をほとんど使わなかったのが、インドネシアの中では珍しくて印象に残りました。

で、おかずができたので、パペダを作ります。

パペダを作る Berap_Papua, 2024

まず、サゴ澱粉(篩にかけて干してたのではなく)を適量とって、水を加えます。
澱粉なので溶けはしないのですが、まずは均一に水と混ぜてから濾し器を通し、異物を取り除いておくのです。
その後、澱粉質が沈澱するまで待って上澄みを捨て、熱湯を注いで練ります。

パペダを作る Berap_Papua, 2024

パペダを作る Berap_Papua, 2024

ちょっと透明感が出たら、お湯はもう十分なので、勢いよくぐるぐると混ぜます。
これ、自宅でやったんですが、大量の糊(しかも粘度高い方がよい)を練るようなものなので、すごく大変です。

パペダを作る Berap_Papua, 2024

練り上がり。

おかず Berap_Papua, 2024

おかずも揃って。

パペダを食べる時は、スープを先にお皿に入れるのがコツです。
そうしないとパペダがお皿にくっついてしまうので。

このパペダ専用フォーク(買って来ればよかったと後悔しています)を使ってぐるぐるっと巻き上げてスープにぽとん。

パペダ Berap_Papua, 2024

パペダ Berap_Papua, 2024

とても美味しい。しあわせ。

タピオカの澱粉を使っても、パペダは作れるのですが「伸びが悪いんだ」とお父さんは言いました。
やっぱりサゴの澱粉で作るのが美味しいんでしょうね。わたしは何度もおかわりをしてしまいました。
でも、ママの4人の子供たちは「お米の方が好き」と言ってパペダを食べません。
米は確かに美味しいのだけど、パプアの土地は稲作に向かないので、基本的に島外から輸入しなくてはいけません。
自作できないものを主食とし依存するという事態は、国家が米食を推奨した結果でもあるのですが、
この、将来の食糧危機が懸念されている時代に、そこに策を打とうと思わないのか、と疑問にも思います。

さて、お日様に干していた方のサゴ澱粉。

この後、すっかりお腹いっぱいになってしまったわたしたちは、ごろごろしたりおしゃべりしたり、
干してた澱粉のことをすっかり忘れてしまいました。

思い出したのは夕方。ちょっと乾きすぎた。
とりあえず、ココナッツの果肉を削ったものを、うっすら茶色くなるまで乾炒りします。

ココナッツ Berap_Papua, 2024

炒っているところに、砂糖適量とバニラを少々。
冷めたら、乾かした澱粉と混ぜ、型に入れて焼きます。サグ・バカール/Sagu Bakar=焼きサゴ、です。

サグ・バカール Berap_Papua, 2024

サゴが乾きすぎてたから、ココナッツはもうちょっとしっとりで止めてよかったかも、とか言いながら。
油などを敷くことはなく、加熱したことで出てくる湿気でサゴの澱粉質がかたまり、パンケーキみたいになるんです。

サグ・バカール Berap_Papua, 2024

サグ・バカール Berap_Papua, 2024

ママは子供たちの好みに合わせて、チョコを入れてあげています。
これはどちらかというと朝ごはんアイテムで、甘いコーヒーやお茶と一緒にいただくのです。

サゴ澱粉の採取は、ジャヤプラ近くのセンタ二/Sentani湖にある、ヨボイ/Yoboiという集落でも見せてもらいました。

センタニ湖 Jayapura_Papua, 2024

ヨボイ集落 Jayapura_Papua, 2024

サゴ林 Jayapura_Papua, 2024

水上集落の背後に、たっぷりのサゴ林。
ここの一帯だけで、22種類のサゴがあるのだと言うのですから、驚きです。サゴ・ダイバーシティ。

村と同様に粉砕機を使い、村よりも広めに溜池を作って澱粉を沈澱させていました。
ちょうど回収してしまったところだったので、溜まっている状態では見られなかったのですが。
ちなみに、ここの澱粉は赤ではなくて、灰色がかかった白

サゴ粉砕機 Jayapura_Papua, 2024

サゴ澱粉 Jayapura_Papua, 2024

サゴ澱粉採集 Jayapura_Papua, 2024

粉砕し澱粉をもみ出した後のカスは、肥料としても使えるし、置いておくとそこに美味しいキノコが生えるのだそう。
食べてみたかった。

村の作業場では、サゴの幹はそのまま適当な長さに切って縦割りにし、粉砕機に内側を当てて外皮を残すやり方をしていましたが、
この集落では、サゴの外皮を、長いままで先に剥がしていました。
それをサゴ林の奥で幹を倒した場所と、澱粉採取作業をする水場をつなぐ足場として使っています。

サゴの幹 Jayapura_Papua, 2024

サゴの外皮による足場 Jayapura_Papua, 2024

集落の人曰く、サゴの木は捨てるところがないのだそうです。

サゴの外皮による集落の橋 Jayapura_Papua, 2024

幹からは澱粉が取れ、搾りかすは肥料にしたり、キノコが採れたり、外皮は足場や橋として、葉は家の屋根として、葉軸の太い所は重ねて家の壁として、そして、木の先端部分は数ヶ月放置すればたくさんのウラット・サグ/Ulat Saguが獲れる。

ウラット・サグというのは、サゴの木の幹の中で育つ白い幼虫です。以前、カリマンタンの森でも食べました。
パプアの人たちにとっては大事なタンパク源の一つであり、みんなの大好物。パプアを象徴する伝統食です。

今回は食べる機会はなかったのですが、
この集落の家に、たくさんのウラット・サグが収穫できた様子を描いた絵がありました。

ウラット・サグ Jayapura_Papua, 2024

この集落のあるセンタニ湖ではたくさんの魚が穫れ、湖畔にはサゴ林が繁り、森には果樹やシダ類が豊富で、
狩漁採集の暮らしの豊かさを思ったりしました。

食を通してだけでも、なんだかいろんなことを考えさせられたパプアの旅、お付き合いありがとうございました。
伝統食を侵食する米食のことを考えてたら、なんだか逆に米が気になり出したので、
今年はもう一回くらい、米の旅に行けたらいいなあ、と思ったり。