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2024/08/18

ムスティカラサ/Mustikarasa

ムスティカラサ

ムスティカラサ/Mustikarasaという本があります。
時の大統領の指示により1967年に出された、インドネシアの端から端まで、各地の料理を集めた壮大なレシピ集。
その後、2016年に再版され(わたしもその時に買いました↑)、今年に入ってまた注目されています。
インドネシアの食文化を見直すことを目的とした、Mustika Rasa Kini(現代のムスティカラサ)という活動や、この本のレシピに基づいた料理を出すレストランなども。

わたしはずっと、単純に、料理を通じての国家統一や、ナショナリズムを高めるためのものだと思っていたのですが、もっと切実に、食糧問題に対応するための政策という意図を持って編纂されたものだったのだと知りました。
というはなしを、今回は。
どこかに旅したとか何を食べたとか、そういうのじゃなくて堅苦しい内容なので、ちょっとうちの猫を添えて。

ムスティカラサ

トータルで1200ページ以上の厚さで、収められたレシピの数は1700ほど。
各地の郷土料理のほか、中国や西洋の料理も含み、レシピ以外にも素材の知識や栄養学的面からの解説もあります。

インドネシアの初代大統領スカルノが指示を出し、その妻のハルティニの監修のもと、1961年から始動したプロジェクト。
メールもファックスもなかった時代、彼らは全国の役所や婦人会などの組織に手紙を送りレシピを募りました。
寄せられたレシピは女性達が実際に試し、その作業や味の確認作業を行い、レシピのみではなく、栄養知識を共有し、献立の組み方も提案するものとして、プロジェクトは進みます。

ムスティカラサ

ムスティカラサ

一大プロジェクトの背景にあったのは、当時の食糧難でした。
インドネシア独立(1945)前と比べて、1965年には米の収穫量は倍に増えていたと言いますが、にもかかわらず、人口も倍に増え、一人当たりの米の消費量も増え、国が政策として農業支援を進めても、いつまでたっても国民の腹は満たされなかったのだと言います。

長きにわたるオランダによる植民地支配、第二次大戦中の日本軍支配を経て1945年に独立を成し遂げた初代大統領は、食糧(=米)自給も国家独立の一つの重要な要素と捉え、国を挙げて取り組んでは来たものの、米の価格の上昇は止まらず、国民の不満も募るなか、軍によるクーデター930事件が1965年に起こり、その後1967年には正式に退陣を余儀なくされます。
そんな、スカルノの政権末期のプロジェクトであったムスティカラサは、彼の失脚と前後する1967年に(やや急足で)出版されることになったのです。

ムスティカラサ

この本の本旨とは、全国各地の地場の素材を用いた食文化を復興/訴求することで、
元来米食ではなかった地域では、米以外のローカルな食材の見直しを進め、米不足を解消しようとするもの。
なので、レシピには、東ヌサトゥンガラ地方で食べられていたトウモロコシ粥、ジャグン・ボセ/Jagung Boseや、インドネシア東部を中心に食べられていたサゴ澱粉の粥、パペダ/Papedaなども掲載されています。

ムスティカラサ

材料別のインデックスで主食の欄を見ると、米を材料とするものが圧倒的に多いのは事実なのですが、その次にトウモロコシを持ってきています(その後、小麦粉、そして芋類)。

ムスティカラサ

主食に限らず、その土地の人々が本来ずっと活用してきていた、そこで採れる食材を使い、美味しくて体によい食事を作れるように、という、地場の食材を見直すことも期待していました。
食生活の原点回帰を促すとも言える、食糧政策としての国を挙げてのレシピ本の編纂。

そこに至る、インドネシアの、というかインドネシアという国ができるより以前からの、人と食の推移を、ここしばらく本で読んで勉強していました。

Ahmad Arifの3冊

インドネシアになる以前のこの島々のことを、なんと呼ぶのがいいか。それははもう「ヌサンタラ」なんですけど、なんか、新首都が「ヌサンタラ」になっちゃったもんで、使いにくいですね。でも、とりあえず、ヌサンタラで行きます。

この先は、自分の備忘録的メモでもあるので、だらだらと続きます。あと、まだ理解の途中なので、後から「あ違うわ」となることもあるかもしれません(だいたい、なんでも「あーなんかわかった」と思ったことは、あとから「わかってなかった」と気づくものですし)。ご了承ください。


まず、ヌサンタラへの人類の移動の段階。
①第一次アウト・オブ・アフリカ:ヌサンタラ着は50,000年前ほど
②第二次アウト・オブ・アフリカ:11,000年前
③第一次アウト・オブ・台湾(オーストロネシア系):4〜5,000年前
④第二次アウト・オブ・台湾:2,000年前
⑤インド・アラブ系移民(ヌサンタラ西部):2,000〜2,500年前

で、これらの人々の定住と食生活の変移は、
①と②の人々は狩猟採集生活を営み、ヌサンタラ各地に広がって行った。当時は、氷河期であったため海水位が低く、ヌサンタラ西側は半島と一体であったりして、移動もしやすかった。
のちに人口の増加などの要因を受けて、農耕へ移行して行く。地球の気温上昇により、草原が森になるなどして、猟がし難くなったからという仮説もあり、面白い。

狩猟採集の生活を送る人々は、現在のインドネシアにもまだいる。パプアのセンタニ湖周辺の人々は、サゴ椰子の澱粉を収集し、湖の魚を捕り、日々の食糧としている。

農へ移行した最初の形跡はパプアで、インドネシア領パプアのバリエム渓谷(人類が定住したのは27,000年前と言われる)では、タロイモ栽培+灌漑整備の形跡は7,000年ほど前まで遡れる。現在は隣国となるが、パプアニューギニア領の地域では、10,000年前にタロイモ栽培の形成が見られ、バナナは6950年前から栽培されているとされる。

③の初期オーストロネシア系移民がイネを持ち込んだ。
彼らは農耕民で、ここでのイネは陸稲。彼らが、カリマンタン等の狩猟採集民と交わった形跡もあるそう。初期農業は焼畑農業。一定の森林を焼き、農地として開墾し、数年ごとに移動していくというシステム。
現在も、カリマンタン内陸のダヤック人は陸稲を用いた焼畑農業をおこなっている。

④と⑤は水稲を持ち込んだ。
おそらく④が先行したようだが、ヌサンタラの特に西部に強くインパクトを持ったのは、⑤のインド水稲。
まずはジャワに伝搬し、一気に拡大定着、スマトラやカリマンタン南部、バリへと伝搬していく(スマトラ北部のアチェや、西部のパダンあたりには、インドからの直接的影響も見られる)。
その後、ヌサンタラ各地で繁栄した王朝を中心に水稲栽培は浸透していった。現ジョグジャカルタ付近を中心とした古マタラム(732〜1045)王朝の遺跡や、シャイレンドラ(760〜850)王朝が建立したボロブドゥール寺院のレリーフなどに、水稲栽培の様子が見られる。
その後、18世紀には、ジャワの低地などは米食が主流となっていた。

Ahmad Arifの3冊

それ以外の地域の主食は、というと、東インドネシアで現在も食べられているサゴ椰子の澱粉。これは、かつてはヌサンタラ各地で食べられていた。
カリマンタンのプナンが食するサゴや、西ジャワの内陸の民が食するサゴは、パプアなどのサゴと木は違うが、椰子科の植物の幹から採取した澱粉であることは同じ。

また、バナナの他、芋類は、最も古いタロイモの他、16世紀にポルトガル、もしくはスペインによって持ち込まれたサツマイモ、そして1892年にオランダが持ち込んだキャッサバなどが主食として広く食されていた。

トウモロコシは東ヌサトゥンガラ州などで今もよく食されているが、サツマイモ同様に16世紀にポルトガル/スペインによって持ち込まれ、定着した。

キビの仲間であるソルガムもよく食べられていた。ヌサンタラに伝搬したのは米よりだいぶ以前である可能性が高く、乾燥地でも手をかけずともよく育つので、各地で栽培された。ただ、主要作物として表に出ることは稀であったため、米の浸透と共に忘れ去れられた感がある(近年、食糧危機に対応する植物として意識され始めてはいる)。

で、それらを踏まえ、このヌサンタラにおける、その後スカルノも頭を悩ます事になる、続く政権でさらに悪化し、いま現在も解決されていない、米化の流れです。

うちの猫で一息いれとく?

ねこ

そもそも、ヌサンタラの人々は、それぞれの土地でそれぞれの植生に合わせた食生活を送っていた。
オランダによる植民地化。強制栽培を目的とした農地のとり上げ、地主小作システムの確立。
主に、ジャワとスマトラを中心として行われた。彼らは、稲作を行う農地を失うと共に、手のかかる稲作に割く労力がなく、この期間は米の消費は減少する。代わりに、乾燥地などで手をかけずとも育ちやすいサツマイモ、キャッサバ、トウモロコシなどが代替主食となる。
インドネシア独立(1945年)
国家の独立=食糧(=米)自給を目指し、米の生産量を倍増させたが、人口も倍増。また、一人当たりの消費量も増え、米の充足は達成されない。
植民地時代に米を取り上げられた地域の人々が独立後の国策に中心となったため、食糧=米、とにかく米、米、米を、という米バイアスが拭えなくなったのではないか、というのは個人の感想(でもそうだと思う)。
従来食の見直し。乾燥地帯の活用も視野に入れ、トウモロコシなどの栽培も推奨。食の意識改革を目指して、ムスティカラサの編纂を指示(1961)。
米の値段上昇を抑えられず、初代大統領スカルノ失脚(1967)。かろうじて出版されたムスティカラサだが、国策に反映されることはなく、時期大統領として、スハルト就任。
農村出身のスハルトは「緑の改革」を掲げ、食糧=米の自給を目指す。多様であった在来種を一掃し、品種改良された指定品種+化学肥料+農薬を使った水稲栽培を推奨。他の作物の栽培農地も水田にするよう指示。
そもそも、焼畑による陸稲栽培は在来種の多様性を維持するに向いていたが、水田による水稲栽培はモノカルチャーの走りとも言えるシステムであり、それがさらに指定品種に制限されてしまったことで、米の多様性が失われた。以前は8,000前後あったとされる在来品種も、その多くが失われてしまったと言う。
また、指定品種の種、化学肥料、農薬、などの購入が必要となるため、稲作はお金のかかるものとなる。それが、地主小作の格差拡大を助長したとも考えられる。
経済的自立を求めて外資の参入に非積極的だったスカルノから、外資と協力関係を結ぶスハルトへ移行した結果、大規模な環境破壊が進む。
一例として、カリマンタン。森林の木材を伐採し、日本の商社へ売却。伐採された森は、放置されるか、パーム椰子など商品作物のプランテーションとして使われる。
移動型の狩猟採集民として暮らしていた土地の人々にとっては、生活の場であった森が失われることになる。食の自給が絶たれ、貧困者枠へ入れられ、従来は米食ではなかった彼らに、支援として米を送られるようになる。
定住化を余儀なくされた人々は、商品作物の栽培を行い、それを売ったお金で米を買うようになる。
各地で同様のことが起こる。
政府=ジャワなので、食糧=米なのは変わらず、支援は常に米。
受給側にとっては「国から与えられるもの」「お金を出して買うもの」である米は、従来の食を支えた「採れるもの」より上位のものというイメージがついていく。
結果、特に若い世代から、従来食よりも米食を求める傾向が強くなり、米依存となっていく。
1954年には米を主食とする人は、全国民の53.5%であったが、1981年には81%にまで上昇している。
しかし、従来米食でなかった地域というのは、米栽培に不向きな土地である場合が多い。このため、従来食を捨て米食へ移行するというのは、必然的に地域での食糧自給が低下することになり、購入するか、国から支給される米に依存することになる。
スハルト失脚後も米化の流れは止まらず。
外部からの米、政府支援の米に依存する貧困地域に明確な策はなく、米による食の植民地化とも言われる。
一例として、東スンバの内陸の村。1970年代までは、米(水稲+陸稲)、トウモロコシ、ソルガム、豆などを栽培し、食を賄えていたが、2016年時点で消費は米中心となり、地域の米総消費量125.5トンのうち、収穫で賄えるのはわずが32.5%のみであり、あとは外部に依存するしかないと言う。
地域支援としてのインフラ整備が進むことで、農業従事における労働力が流出する。加えて、消費作物に代わって換金作物を栽培するようになり、収穫物は自分達が食べるのではなく、町へ出て売るものになる。売ったお金で米を買う。
近年、米食は低下傾向。代わりに小麦の消費量が上昇。ただし、小麦は100%輸入のため、自給率はさらに低下することになる。
小麦=インスタント麺
2024年は400万トンの米を輸入すると予測され、これは過去最大の数値。

で、この状況をどうにか見直そうという流れが、冒頭の「現代のムスティカラサ」のムーブメントなのです。

ムスティカラサ

たぶん、こういう流れ、わかっている人はきっとちゃんとわかっていたんだと思うんですがわたしあんまり気づいていなかったんですよね。
パプアで、あんなに美味しいパペダを前にして、子供たちは米を食べたがると聞いて、あんなに豊かにあるサゴ椰子の澱粉より、みんな今は米志向だと聞いて、ようやく「え」となりました。
パペダよりご飯が上なのだろうか?と。

確かに、米は美味しいんです。わたしも日本人なのでそれは認めます。その米のおいしさが中毒性を持つのも確かです。そして、美味しいは、割と全てに優先されるのも事実だと思うので、もうどうしようもないのかな、とも思うのですが。

でも、例えばGI値を比べると、ご飯は80ですが、サゴは40です。
ご飯の方が、サゴより燃焼されやすいので、すぐにお腹がすいてしまうんですね。
加えて、これはメンタワイ島でのデータですが、1時間彼らが働いて得られる収穫としては、サゴは2.6キロなのに対して、米は0.6キロなんです。効率が非常に悪い。
作業効率が悪く、燃費も悪く、かつ自給できないので外部に頼らざるを得ない、そんな米なのに。
というジレンマを感じてしまったのでした。

ムスティカラサ

なので、この一式を調べて、結構満足しました。
それを知って、じゃあ今から何かできるのかといえば、できることはほとんどないでしょうが、それでも、知っているから気付けることっていうのはあるわけですしね。
長々お付き合いありがとうございました。

次はコメの地へ、という計画に変更はありません。


2019/06/21

ボティ村のキッチン

炊飯 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

5月の終わりに、ティモール島中南部のボティ/Boti村を訪れました。
電気もガスも水道も携帯の電波もない村で、
その村の中の、特に古くからの慣習を守って暮らしているひとたちの集落に2泊させてもらってきました。


ボティ村はだいたいこの辺。

ボティへの道 Timor_East Nusa Tenggara, 2019

電信柱のない道を、登って下って登って下って、登って少し下った辺りにある村。

集落の様子をiPhoneで撮ったりしていたのですが、その直後にiPhoneがこわれ(泣ける)、
クラウドにアップし切れていなかった写真たちは消えてしまいました。
唯一、朝に撮った動画だけが残っていたので、どうぞ。


動画の最後にたどり着いたのが、外の調理場。
毎朝、ここでお湯をたっぷり沸かすところから、集落の女性たちの一日は始まります。
(集落では、男女の役割が結構厳密に分けられているのです。
男性たちは畑仕事や渉外ごと、女性たちは調理や機織りなどの中の仕事を担います)

外の調理場 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

大きな石を三つ並べて鍋を安定させる囲炉裏にしています。

この村では水は、沢から汲んできます。
それを煮沸して、湯冷ましを飲んだり、お茶やコーヒーを淹れたりします。

水汲み Boti_East Nusa Tenggara, 2019

外の調理場の横には、台がしつらえられていて、そこに食器や野菜やが置いてあります。
この台が、なんとも愛おしく、絵になる気がして、わたしは大好きでした。

調理場 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

木の股に竹を渡して、あれこれ吊るすのに使っていたり。

調理場 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

バナナとか、お玉とか。
お玉は割った椰子殻に木の柄をつけたもの。
それを吊るしておくための輪っかもまた椰子殻。

椰子の木の横に括り付けられている、椰子の葉で編まれたこれ。

調理場 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

鶏が抱卵するカゴ。
卵は、もらっちゃうんですけどね。タンパク源です。
(ちなみに、向こうに見えている屋根がかかった小屋はヤギ小屋です)

調理場 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

散漫に見える外の調理場周り、必要なものがきちんと手に届くように配置されています。
ヤギ小屋の奥の柵の中には豚たちがいて、残飯などの餌やりも簡単。

子豚親豚 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

お母さん豚の首に括られているのは、柵をくぐって畑の作物を荒らさないようにというつっかえ棒。

外の調理場の手前に、調理小屋。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

煙が出てる。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

右側の囲炉裏ではご飯を炊いているところ。
煙の流れる窓のそばには、干し肉。薫製にして保存食としています。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

見上げると、トウモロコシやピーナッツなども。
煙を当てることで虫除けになり、こうして保存したものを次の雨季に種として撒くのだそうです。

煙突もなく、小屋の内部はだんだん目にしみてくるくらいに煙が充満しているのですが、
それもこういう用途につながっているんですね。

小屋の外側には、台所用品が。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

きれいに編まれて使い込まれたカゴたち。うっとり。

朝の炊事が終わったあと、ざざっと広げられたトウモロコシたち。

干しトウモロコシ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

村の畑で採れた、白い粒のトウモロコシ。ねちっとした粘度高めの実です。
これを乾燥させたものを、選り分けて(虫食いもあるのです)、芯から外していきます。
そして外したトウモロコシを、今度は搗きます。といっても、潰すのではなく、脱穀。

脱穀 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

おこぼれを狙ってる鶏もいます。

芯から外した乾燥トウモロコシに少し水を垂らし、ひたすら搗くのです。
そうすると、皮だけがはがれたボセになります。

かなり重労働で、延々と搗きます。

脱穀 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

脱穀 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

このくらい、はがれた皮が浮いてくるくらい。

こうしてできたジャグン・ボセ/Jagung Bose は村の食卓の定番。

ジャグン・ボセ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

刻んだ青菜も一緒に入って、そしてココナッツミルクはいれてないバージョン。
うっすら塩気があって、沁みる滋味です。

この日のお昼の献立はこんな感じ。

昼食 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

ジャグン・ボセの他、白米、野菜スープ、鶏の甘煮、フレッシュなサンバル、揚げ煎、バナナ。
鶏はたぶん、わたしが来たからと一羽潰してくれたのです。

外の調理場の台に、採れたてのカボチャがありました。

カボチャ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

それを刻んだものが、調理小屋でスープに。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

カボチャのスープ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

調理方法はごくごくシンプル。
油でさっとニンニクを炒め、そこに刻んだカボチャを加えて水を注ぎ、塩で調味。

集落の食生活は、ほとんど自分たちで賄えているのだそうです。
野菜は畑から。米の採れない地域で主食代わりのトウモロコシも畑から。庭には家畜。卵も採れる。
油はココヤシから自分たちでとる。砂糖もロンタル椰子からとる。
コーヒーも収穫して干して焙煎して潰して淹れる。バナナもピーナッツも畑で採れる。

おやつ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

畑の恵みのおやつ。
器を乗せているかごもかわいい。

かご Boti_East Nusa Tenggara, 2019

ふたつき。

ちなみに、下に敷いている布も、この村で織られた布です。
水は沢から、薪は森から、食料は畑と庭から。
自分たちで賄えないものは、と聞いたら「お米とお茶」と返ってきました。
たぶん、塩もだと思います。ケーキを焼いてくれたりもした、その小麦粉も。
なので、自給自足というわけではもちろんないのですが、それにしても日々を十分賄っている暮らしです。

揚げバナナ Boti_East Nusa Tenggara, 2019

キッチンというのは、暮らしにそのまま直結する場所。
山の村の暮らしの中のキッチン。
一緒に囲炉裏の火に当たりながら、煙の匂いのする水を飲みながら、囲炉裏で暖をとる猫を撫でながら、
トウモロコシを外しながら、虫食いの実を鶏に投げてやりながら、畑の恵みを胃袋に納めながら、
はるか昔から続いてきたのであろう、彼らの暮らしの断片を、感じました。

調理小屋 Boti_East Nusa Tenggara, 2019

このボティ村にある高校について、別の記事を書いています→ボティ村の学校
読んでいただけたら嬉しいです。





2018/12/31

トウモロコシ/Jagung

トウモロコシ Bandung_West Java, 2018
大晦日ですね。トウモロコシの日です。

大晦日の夜には、焼きトウモロコシを食べる。
わたしがそれを知ったのは去年の12月でした。
よく一緒に仕事をしている取引先のインドネシア女子に「大晦日は焼きトウモロコシだよね」と言われ。
「へ?」という顔をしていたわたしに彼女は「なおさん、なんで知らないの?!」と畳み掛けました。

そう言われて見てみたら、どうでしょう、たしかに大晦日の街にはトウモロコシが溢れています。

トウモロコシ Bandung_West Java, 2018

わたしが暮らす西ジャワ州バンドンでも、市場にはいつも以上にトウモロコシが積まれ、
スーパーマーケットでもトウモロコシが売り場のいい位置に移動し、
近所の辻には「農家直販」風の軽トラックまで。

ネットで「大晦日、焼きトウモロコシ」と検索すればレシピがずらっと(焼きトウモロコシのレシピとは)。
冒頭の彼女曰く、彼女の自宅がある町内会では一週間前くらいに注文を集めるらしく、
なんと今年は、うちのメイドさんの家の辺りでも農家から「いかがですか」という触れ込みがあったそう。

どうしてトウモロコシなの?という疑問がむくむくと。

トウモロコシ Bandung_West Java, 2017

厳密には、トウモロコシだけではないんですね。色々焼くのだそうです。
サツマイモや、バーベキュー風にお肉だったり、魚だったりを、屋外で炭火を使って焼いて食べる。
その中でも、なぜかトウモロコシがメインに取りざたされているのですが、
ざっと調べた限りでは、これはここ十年くらいに認知され始めた新しい習慣なのではないかと思います。
インターネット上でも、古いので2011年の記事に「大晦日の習慣、焼きトウモロコシ」というのがありました。
そしてこれを行っている地域は、まだジャカルタを中心とした都市部だけなのではないかと思われます。

大晦日にトウモロコシを焼くその理由については、
曰く、沢山の粒からなるトウモロコシは我々の持つあらゆる能力や可能性を表わし、
かつそれを見せびらかすことなく包み隠している謙虚さも示している(ので、それにあやかる?)とか、
年を新たにする際には、古い年の(自らの中の)悪しきもの(習慣や感情)を「焼き捨てる」必要があり、
それをふまえて、火を熾し色々焼くのだ、というのとか。

まあ、後付けの理由でしょうね。

インドネシアの年越しは友だちや家族と、家や、時には郊外に借りた一軒家などに集まり、
めいめい花火をあげたり、おもちゃのトランペットを吹き鳴らしたり、賑やかなものです。
そんな場で、花火を眺めながらみんなでお喋りしながら、なにをする?でバーベキューだったんではないかと。
もともと、炭火で何かを焼くのはインドネシアの調理法として一般的ですし、
ちょっとしたピクニック先などでトウモロコシを食べるのも、これまた一般的です。
親和性の高さ、ということではないかなと思っています。

ところで、トウモロコシ。
インドネシア国内で、トウモロコシの消費が盛んな地域と言えば、東ヌサトゥンガラ州です。


オレンジ色のあたり。
生産量としては決して多くはないのですが、
乾燥した気候と地質のこの地域に合致した作物として浸透しています。

鏡味治也編『民族大国インドネシア』(2012年木犀社刊)の中に、西ティモールについての記述があります。
(西ティモール=地図右下の半分色がついている島がティモール島、その東部は「東ティモール」として独立)
西ティモールの人口の半分を占めるアトニ・メトと呼ばれる民族において、彼らの用いる倫理規範は、
「慣習に従うこと」と「トウモロコシに従うこと」なのだというのです。
トウモロコシの扱いを誤ってはならない、一粒たりともムダにしてはならない、というのです。
文中から抜粋すると、
「普遍的な世界史にしたがえば、トウモロコシは十七世紀にオランダによって西ティモールにもたらされた。以後急速に普及し、島の農業と食生活を四半世紀の間に大きく変えていったとされる。しかし村人たちは、トウモロコシは、彼らの歴史の始まりにおいて、すでに祖先とともにあったものだと語る。祖先がトウモロコシを食料とする以前の時代が想像され語られることはまずなく、歴史の始まりから今日まで連綿と受け継がれてきたことが強調される」
とあります。かくも浸透しているトウモロコシ。非常に興味深いなと思いました。

とはいえ、アトニ・メトのこの事例はやや極端な例ではありますが、
この東ヌサトゥンガラ州での食生活におけるトウモロコシの存在感は、やはり西ジャワ州とは異なります。

市場 Timor_East Nusa Tenggara, 2018

乾物として売られている中に、挽き割りトウモロコシや、白い薄皮をむいたトウモロコシ。

挽き割りトウモロコシ Timor_East Nusa Tenggara, 2018

挽き割りトウモロコシはご飯に混ぜて炊くのだと言われました。

白い薄皮をむいたトウモロコシは、以前記事にしたジャグン・ボセをつくるためのトウモロコシ。
肉質が異なり、こちらはもっちりした粘度の高めのトウモロコシです。

剥きトウモロコシ Timor_East Nusa Tenggara, 2018

食事としてのトウモロコシの他に、おやつとしてのトウモロコシ。

トウモロコシのおやつ Bandung_West Java, 2018

揚げトウモロコシ/Jagung Goreng (Marningと言われることも)と、潰しトウモロコシ/Jagung Titi。

揚げトウモロコシは、一旦茹でてから干し、味付けをしてから改めて揚げたもの。ボリボリとした食感です。

揚げトウモロコシ Bandung_West Java, 2018

潰しトウモロコシ、もしくはジャグン・ティティ(ティティ/Titi=潰す)はもう少し保存食的な印象。

皮を剥き、乾煎りをしてから熱いうちに一粒ずつ潰していきます。
それを天日で干し、しっかり乾燥させることで日持ちさせるのだそうです。
そのまま食べたり、揚げてスナックにしたり、コーンフレーク様に朝ごはんにミルクをかけてもいいと言います。

ジャグン・ティティ Bandung_West Java, 2018

これはピーナッツも入っていますね。

ジャグン・ティティは、フローレス島の東部から以東の島々で特に好まれるそうです。
夕方、コーヒーを飲みつつジャグン・ティティをぽりぽり食べる、というのが定番なのだとか。
2018年6月まで二度に渡り任期を努めた東ヌサトゥンガラ州知事は、フローレスの東に位置するアドナラ島出身。
会談の場や、中央政府からの役人、大臣、はては大統領を迎えるような場でも、
常に「自分たちの原点として」ジャグン・ティティを忘れずに用意させたのだと聞きます。

このジャグン・ティティをカリっと揚げたスナックは、ウンピン・ジャグン/Emping Jagungと呼ばれ、
パリパリと香ばしいコーンスナックという感じで、手が止まらなくなります。

ウンピン・ジャグン Bandung_West Java, 2018

それからもうひとつ。

トウモロコシ Bandung_West Java, 2018

油と塩で乾かしたトウモロコシを炒って作る、あれ。

ポップコーン Bandung_West Java, 2018

ポップコーン。

ジャワでは、ポップコーンと言えば、映画館。もしくは袋入りのスナック菓子という感じですが、
東ヌサトゥンガラでは、もっと家庭的な立ち居位置。
島の漁村にお邪魔した時、そこの村長さんの奥さんがおやつに作って出してくれたりしました。

ここ西ジャワ州バンドンから少し行ったところに、野菜栽培が盛んな高原の町レンバンがあります。
そのレンバン産のトウモロコシがこの辺りではよく流通するのですが、
基本的にスイートコーン。中には、生で食べても十分甘くてジューシーという品種も。
トウモロコシを食べるシーンとしてはあくまで「ピクニック」で。
日常の中では、せいぜいがスープの具という程度でしょうか
甘さは抑えてもちっとした東のトウモロコシとは品種も、その立ち位置も異なります。

ということで、トウモロコシ徒然。

わたしは今朝のうちに買ってきていたのですが、昼前にうちに来たメイドさんからもまたごそっと。

トウモロコシ Bandung_West Java, 2018

例の、触れ込みにきていた農家から沢山買ったのだとお裾分けしてくれたのでした。

ということで、うちには今、十本のトウモロコシがありますよ。食べなくちゃ。

トウモロコシ Bandung_West Java, 2018

あちこちから上がる花火の音と、近所の子どもたちがならすトランペットの音を聞きながら、
今夜は焼きトウモロコシを食べるのです。

ということで、みなさま、よいお年を。